丸子船は、琵琶湖特有の形状進化をした船です。一番の特徴は、船体の両側の「おも木」と呼ばれる部分です。本来、「おも木(オモギ・オモキとも言う)」は準構造船の側面、もしくは側面下部の構造材を指します。丸子船はこの部分に大きな丸太を半割にし、そのまま取り付けるという、独特の手法を用いています。これには「浮力を持たせる」とか「強度を上げる」「船を安定させる」などの理由が考えられますが、そのどれをとっても、明確な理由としてはいささか説得力に欠けます。実は丸子船の最大の特徴が、丸子船の「謎」のひとつでもあるのです。丸子船は他にも多くの特徴をもっており、私たちをロマンの世界へいざなってくれます。

 菱垣廻船や北前船のような海洋船(弁才船)の船底は、波を切るように鋭角的ですが、丸子船は波に「乗る」ように船底が平べったく作られています。これは水深が浅い事と、琵琶湖の波の「うねり」が海と異るため、鋭角的な船底だと水の中に船が潜り込んでしまうからです。また帆柱は、他の多くの帆船よりもずっと後ろに取り付けられています。積荷は船首から帆柱の所あたりまでに積み、後ろには寝泊りをするスペースが作られていました。

 丸子船には湖南型(堅田型)と湖北型(長浜型)があり、船の特徴が微妙に違いました。また基本的な構造は同じですが、船主や船頭、船大工などがそれぞれいろいろな工夫をして、機能性やデザインを少しずつ変更していたようです。
 残念ながら、丸子船のことを詳細に書いた書物がほとんどないため、丸子船の歴史を知ることは難しいのですが、数少ない資料や、地元の方のお話などを参考にして、できる限り詳しく紹介していきたいと思います。
上の図の番号か下の表の名称をクリックすると説明ページが開きます。
各部の名称  ◆ 船の話 最初にご覧下さい
 ツラ  ダテカスガイ  おも木
 舵床  とびのお  かさぎ
 せみ(滑車)    その他

-+-シン-+-
「神與丸」の前面を下から見たところ。材料にはケヤキなどが使われたそうです。シンは家屋でいう棟木と同じように、船にとって大変大切な部分でした。
-+-綱くくり-+-
船の上幅を固定する横木を「イクラ」と呼びます。船首と船尾のものは横に張り出し、船首には「綱くくり」、船尾には「櫓まくら」が取り付けられました。


 丸子船は主に「槇の木」で作られていました。槇の木は西日本に多く見られ、神社の御神木になっている立派な木も多くあります。船体のほとんどは槇の木ですが、丸子船のトレードマークである「おも木」には杉や檜が使われていたようです。船体の上の構造部分には檜が使われることが多かったようですが、社会情勢によって思い通りの材料が入手できるとは限らなかったでしょう。しかし、船大工は誇りをもって材料を厳選し、材木の伐採の時点から責任をもって船作りをしたそうです。船首の「シン」と呼ばれる部分は、船にとって最も重要な部分として扱われました。「シンを立てる(取り付ける)」日には祝いの宴を催して、家の建築で言えば「上棟式」のようなお祝いをしていました。

 丸子船と琵琶湖水運の中心地〜塩津〜
 丸子船が全盛を極めたのは江戸時代中期(元禄時代)頃です。現在ではまったく姿を見る事ができなくなりましたが、当時は1400隻もの丸子船が湖上を行き来していたようです。一斉に帆を広げて進む丸子船の一団は、さながら浮世絵図のようだったと伝えられています。
 塩津港(現西浅井町塩津浜)は、琵琶湖畔の主要48浦(港)の中で最多数の丸子船を所有していました。琵琶湖水運の話でも触れていますが、京都・大坂と、北陸・東北・北海道などとの重要な輸送経路として位置付けられていたからです。以下は年代別の丸子船の総数と、大津、塩津の比較数です。

年代別丸子船総数の推移
年 代 船  数
慶安2年(1649) 1007隻
延宝5年(1677) 1177隻
元禄9年(1696) 1216隻
享保19年(1734) 1348隻
寛政2年(1790) 645隻
=100隻 =10隻
年 代 大津(隻数) 塩津(隻数)
慶安2年(1649) 56 43
延宝5年(1677) 78 125
元禄9年(1696) 84 115
享保19年(1734) 80 93
寛政2年(1790) 44 90


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