大谷吉継1559〜1600
 「大谷刑部」という呼び名のほうが有名かもしれません。これは、秀吉の小姓として働き、後に出世して「刑部小輔」に任ぜられたことに由来しています。
吉継は蜂屋頼隆の死後、越前敦賀城主になっています。彼の活躍は目覚しく、賤ヶ岳の合戦では「七本槍」に次ぐ武勲をあげ、秀吉に「吉継に100万の軍勢を指揮させてみたい。」と言わせるほどの高い評価をされていました。
残念ながら吉継はハンセン病を患っており、関ケ原合戦の頃には頭巾をかぶらなければならないほど皮膚は崩れ、視力も衰え、自力で歩くこともままならない状態であったといわれています。今ではハンセン病は治療法も完成されて、それほど恐ろしい病気ではなくなりましたが、昔(近年まで)は不治の伝染病として差別されていました。しかしながら、そんな吉継を秀吉が寵愛したということは、それだけ吉継の能力が高く評価されていたということかもしれません。そしてもう一人、吉継の終生の親友となる人物が石田三成です。三成は吉継の難病を気にもとめずに同じ茶碗で茶をすすったといわれ、以来、吉継との友情は揺るぎないものとなったそうです。
関ケ原の合戦では、吉継は負け戦とわかっていながら三成との友情を重んじ、次々と東軍に寝返る西軍諸将を相手に戦い、そして散っていきました。まさに「義」に生きた誇り高い武将でした。
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