日本中央運河計画…明治29年
 塩津〜敦賀間の運河計画について、
幕末(1867)の「金沢藩・小沢一仙」の計画から、明治34年(1900)の「吉原源之助」の計画まで、
運河の計画はされなかったと考えていたのですが、今回当町在住の沢田氏より情報の提供があり、
調査・検討の結果、明治29(1896)年に

敦賀―塩津…大津―宇治川(京都)

の日本中央運河の計画がなされていたことがわかりました。
ここではこの計画についてご紹介したいと思います。
■目論見書

日本中央運河株式会社の目論見書
資料提供:沢田信氏(西浅井町)
左は「日本中央運河」の目論見書です。
 これによりますと、運河には「第一水路」と「第二水路」があり、第一水路は敦賀湾から愛発村(敦賀市疋田あたり)を通り、滋賀県側の西浅井町塩津まで(延長18.6km)、第二水路は大津から山城國(京都)山科を経由して伏見で宇治川に接続する(延長13.1km)、といった内容です。さらにこの計画では、第一水路に6,500馬力、第二水路に6,000馬力の水力発電装置を設置することも明記されています。
 運河建設の目的は主に3つ上げられています。
1.敦賀港が特別輸出港に確定した。
2.大阪、京都への電力の供給による産業の発展。
3.琵琶湖の増水による洪水被害の回避。

などがそうです。
 ちなみに計画時の予算は700万円でした。明治21年に完成した「利根運河(開削延長8379m)」の工事予算が40万891円です。日本中央運河は総延長で利根運河の3.8倍の規模であることや、険山間地であること、また運河に発電施設建設などが含まれているという関係上比較にはならないかもしれませんが、その事業の巨大さはわかっていただけるかと思います。
■今立吐酔からの手紙…明治29年6月〜7月
 さて、右は資料を提供して下さった、沢田氏の曽祖父にあたる
沢田恒太郎氏に当てられた、今立吐酔からの手紙です。手紙は3通あり、明治29年6月21日、25日、7月13日にそれぞれ書かれたものです。
 吐酔はこの手紙の中で、この運河計画がもたらす大きなメリットを再三強調しています。さらに、敦賀側に運河計画に懸念(琵琶湖の水による水害)を示す人々がいることに対し、計画の完璧さと運河の安全性を訴え、塩津村会に説得への協力を要請しています。
 まず吐酔が主張する経済的メリットは、
1.大津からの船はすべて塩津港に集まり、その通貨物を仮に324万石として、100石船に満載したとすると32,400隻となり、1日平均90隻の船が塩津港を利用する。
2.船の船頭を3人と仮定すると、毎日270人が塩津にて飲食をする。天候の悪い日など出船を見合すときは、さらに数倍の人数になる。

として、「塩津沿岸一帯の地は熱閙繁盛の場と化す」と言い切っています。また軍事的メリットとして、
有事の際には海軍船が津軽や下関を回らずに、最短距離で日本海に出られるため、国家の軍事面から見ても非常に有益であるとしています。

今立吐酔からの書状
資料提供:沢田信氏(西浅井町)
■琵琶湖疎水
 琵琶湖疎水は1890(明治23)年に完成しました。これは滋賀県の大津から現在の京都府伏見の宇治川を結ぶ、当時世界的にみても非常に高度な技術で作られた水路(運河)でした。
 さて、なぜここで「琵琶湖疎水」が引き合いに出されるか、ということですが、これがひとつの疑問に結びついてきます。吐酔は1882(明治15)年に京都府中学校の初代校長に就任しています。校長就任には京都府からの強い要請があったと言うことですが、その時の京都府知事は「北垣国道(きたがきくにみち)」という人物でした。実はこの人物こそが琵琶湖疎水計画の仕掛け人だったのです。北垣知事は「島田道生(測量士)」・「田辺朔郎(技術者)」という優れた人物を起用し、共に琵琶湖疎水を完成させます。そして、その顛末を吐酔は間近で見ていた可能性が高いと考えられます。だとすれば、「日本中央運河計画」の中の第2水路はなぜ必要だったのでしょうか?これについては、まだはっきりとしたことがわかっていません。
 ともあれ吐酔は琵琶湖疎水が完成したのと同じ年(明治23年)、京都府中学の校長を辞しています。その後外務省に出向し、翻訳官として働いていたということです。吐酔自身が1897(明治31)年に自ら記した履歴によると、京都府中学辞職後は外務省書記、1889〜93北京で公使館書記、1895(明治28)年には遼東半島占領軍司令官の下で文官として勤めたとしています。
■時代背景
 緊迫する情勢
 吐酔からの手紙は「明治29年」となっています。ではこの頃、日本…世界はどういう状況下にあったのでしょうか。
 実はこの明治29年という年は「日清戦争」の直後にあたります。日清戦争とは、朝鮮半島(李王朝)をめぐって、清国(中国)と日本との間で起こった戦争です。
 当時朝鮮は李王朝による500年も続く長期政権の下にありました。長く続いた政権は、官僚の腐敗や荒廃をもたらし、その国力は極度に低下していました。そしてその状況に対して、不安と野心を抱いていたのが「日本」「清国」「ロシア」です。日本にしてみれば、清国・ロシアといった大国が目と鼻の先である朝鮮まで、勢力を広げてくることは大きな脅威でした。一方清国は朝鮮を属国と考えており、その宗主権を主張し、また、ロシアに至ってはシベリアを征服し、満州を手中に収めようとしていました。そしてその勢いもあって、朝鮮をロシアの保護国として権利を主張していたのです。これに対して日本は、なんとか清・ロシアをけん制できないかと、「朝鮮は完全な独立国であり、その自主性を認めるべきだ」と、朝鮮の中立を主張しました。もちろん、日本が朝鮮の支配を目論んでいたことは言うまでもありません。
 
朝鮮戦争突入
 その頃、当の朝鮮国内では「東学党の乱」が頻発しており、これが農民一揆(甲午農民戦争)にまで様相を変化させ始めます。弱体化した政府軍は内乱を収めきれずに、とうとう清国軍に出兵を要請してしまいます。これが1894(明治27)年6月です。これには日本も黙っていませんでした。清国軍への出兵要請から10日後、日本軍も朝鮮に上陸し、李王朝に対して「ごり押し」で日本軍の行動を正当化させます。日本は、朝鮮側が日本に対して「出兵要請をし、清国軍を駆逐するよう頼んだ」ように仕向けたのです。こうして同年8月1日、日本は清国に対して宣戦布告し、朝鮮を舞台とした戦争が繰り広げられることになります。
 
日清講和条約
 黄海における連合艦隊の勝利によって日本は制海権をつかみ、続いて陸軍は遼東半島から上陸、金州・大連・旅順と攻略します。その後、連合艦隊は威海衛を攻撃し(威海衛の海戦)、1895(明治28年)2月、ついに日本は清国を降伏させました。
 戦争終結後、日清講和条約(下関条約)によって日本は、遼東半島・台湾・膨湖諸島の割譲、清国の朝鮮への宗主権を放棄させ、朝鮮全土を手に入れました。ちなみに時の首相はかの伊藤博文でした。
 
三国干渉
 そうなるとロシアもボヤボヤしていられなくなります。シベリア鉄道建設に力を入れていたロシアは、朝鮮・満州に日本が進出してくることは絶対に避けたい事態でした。そこで、日清講和条約調印の数日後、ロシアは「遼東半島を清国に返すように」要求してきました。この時ロシアは「フランス」「ドイツ」を抱き込み、この主張を国際的意見として日本に突きつけました。これが世に言う「三国干渉」です。この要求は、その裏に「聞き入れなければ武力を行使する」という、ロシアの脅しが含まれていたため、勝ち目のない日本は要求を飲まざるを得ませんでした。こうして遼東半島は清国に還付されます。そしてこの2年後、遼東半島と満州はまんまとロシアに占領(租借)されてしまいます。

 さて、ここで話を吐酔に戻します。上項で書いたように吐酔は日清戦争の最中、清国で日本政府関係の仕事をしています。日清講和条約調印の現場において「遼東半島占領軍司令官」の元に勤めていたのです。このことから考えると、吐酔が琵琶湖疎水を知りながら、日本中央運河の第2水路を必要と考えた理由がぼんやりと見えてくるような気がします。

つづく…

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